Commentary
著者に聞く⑨――島田大輔さん
『中国専門記者の日中関係史』(法政大学出版局、2025年3月)

土屋礼子先生(早稲田大学教授)によると、現在日本の大手新聞社内で中国関係の部署の地位は必ずしも高くないけども、中国問題が顕在化した1920年代から40年代に関しては、中国専門記者は社内でかつてない程勢力を伸ばしたそうです(土屋礼子「毎日・朝日の二大新聞社における『東亜』の組織と記者たち」『Intelligence』第15号、2015年)。そして、その活動は次第に記者の活動の枠を越え、政府関係の嘱託に就任したり、昭和研究会(近衛文麿のブレーン・トラスト)へ参加したりするなど、様々な形で時局に積極的に関与するようになっていました。当時のメディアを紐解(ひもと)けば、中国専門記者は、中国情報の供給源として非常に大きな位置を占めていたことが分かります。彼等は、陸軍、外務省、実業界の中国通と並んで、戦前期日本の中国通の重要な一要素でした。
この中で、太田が異色だったのは、問1で述べた通り、論壇で主流だった「中国非国家論」から一線を画していたことがあります。太田は、中国を近代化可能な普遍国家と観察し、相互不信に代わり相互信頼の必要性を説きました。そして、日本は中国の国家統一を積極的に援助せよ、との論陣を張りました。これは陸軍の認識とは異なったものであり、論壇の中でも傍流の考えでした。しかし、中国ナショナリズム、国家建設の動向・要望を偏見なく紹介し、日本の中国政策の転換を勧める、太田の中国統一援助論は、中国国民政府と「対話」するためのあるべき「日中相互理解の基盤」とは何か、日本の朝野に警鐘を鳴らすものであり、『大公報』など当時の中国メディアでも好意的に取り上げられたのです。
尾崎秀実との違いは、中国の統一主体をめぐる見解の相違にあります。平たく言えば、太田は中国国民党、国民政府を、尾崎は中国共産党を、それぞれ中国統一主体として着目していたという違いです。両者は、ともに日本国内に蔓延していた「中国非国家論」、そしてそれをもとにした中国侵略政策に批判的であったものの、その中国認識は相容れないものがありました。太田は、早稲田大学在学中の1916年に孫文一派による第三革命に参加しています。そこから太田は大の中国国民党びいきになっています。これは生涯を通じて変わることはありませんでした。特に1930年代には、中国国民政府の統一事業を心から応援するようになります。
問3 関連して、特に参考にした先行研究や史料はありますでしょうか。
(島田)特に参考にした先行研究は、研究を始める頃に出版された、馬場公彦先生(当時、岩波書店)の『戦後日本人の中国像――日本敗戦から文化大革命・日中復交まで』(新曜社、2010年)がまず挙げられます。
同書刊行後に、劉傑ゼミに馬場先生がいらっしゃって、ご著書について報告されたのですが、私から「戦前期はどんな状況だったのか?」と質問をしたんです。そしたら、「それは貴方がやってみたら如何ですか?」と仰っていただいて、それが本書の研究に繋がっています。馬場先生の研究は、雑誌が主体で、私は記者個人が主体という手法の違いはありますが、中国認識研究というものを強く意識したきっかけとなりました。本書でも、太田の戦後を論じる上で、同書に依拠して論じております。
他には、西村成雄先生(大阪大学名誉教授)の「日中戦争前夜の中国分析―『再認識論』と『統一化論争』」(岸本美緒編『岩波講座 「帝国」日本の学知 第三巻 東洋学の磁場』岩波書店、2006年)も参考になりました。これは、1936~37年の中国統一化論争、中国再認識論という中国認識刷新の論壇状況を分析したもので、その中の一人として太田にも言及されています。太田を取り巻く論壇状況を知る上で非常に参考になりました。