Commentary
著者に聞く⑥――黄喜佳さん
『中国共産党中央局の研究』(東京大学出版会、2025年3月刊)

中国学.comでは、現代中国および中国語圏の関連研究の中から、近年注目すべき著作を出版された著者にインタビューを行います。今回は中国政治論・現代中国政治外交史の専門家で、『中国共産党中央局の研究』の著者である黄喜佳さんにお話を伺いました。
問1 そもそも中国共産党中央局(以下、中央局)とは、どのような組織なのでしょうか。なぜ中央局に興味を持たれたのでしょうか。
(黄)まず、「中央局」という呼び方について説明したいと思います。私が本書やその基となった博士論文を執筆した際に、この組織を「中央局」と呼ぶべきか、あるいは「中央の地方局」と呼ぶべきかについてかなり悩んでいました。なぜならば、やはり「中央」という語を使うかどうかによって、この組織に対する第一印象もかなり変わると思ったからです。例えば、よく中央局と混同されるものとして、中国共産党の最高意思決定機構である「中央政治局」があります。ここで言う「中央局」とは、それとは別の組織です。
中央局は1949年から1966年の間に、複数の省の党、政府、軍隊を統括する六つの党組織(東北、華北、西北、華東、中南、西南)として存在した組織です。前身となる組織は1920年代から設立されていましたが、ここでは中央局とはどのような組織かを説明するために、①党規約、②メンバーの構成、③実際の活動という三つの側面から見ていきましょう。
まず①について、1920年代に中国共産党は中国国民党の弾圧を受けて、各地の組織が崩壊に追い込まれました。それを背景として1928年に採択された中国共産党の党規約では、中央局は実際の必要に応じて設立される党中央の派遣機構であると明記されています。この規定の意図は、中央局と地方党委員会の区別をつけることにありました。中央局の存続期間や具体的な活動については記述がありませんが、あえて明記を避けたのは、柔軟に組織を活用するためであったと考えられます。つまり、中央局は当初、臨時的な「中央からの特使」と位置づけられたわけです。
ところが、中央局の性質は日中戦争と国共内戦の間に変化しつつありました。中央局の存続期間が延びただけではなく、戦争の長期化によってその機能は党組織の管理から軍事活動や政府部門に対する指導(中国語では「領導」、以下同じ)にまで拡大しました。つまり②について、この時期から、中央局は中央から派遣される名義上の代表でありながらも、人事上も組織上も地方党組織と多くの重複が見られるようになります。こうして、中央局は中央の派遣機構でありながらも、地方党委員会の人事と組織を基盤とする、中央と地方の両面性を持つ機構になりました。このことは③に関わることですが、当時の実際の活動を詳細に見れば、中央局は常に中央・地方の間を仲介し、中華人民共和国建国(1949年)後の多くの政治事件においてパワーバランスを取る役割を果たしてきたことが分かります。
また、特に説明しなければならないことは、中央局の名称は時代や目的に応じてしばしば変わっていたことです。例えば、1949年までは「地名+中央局」(例えば晋察冀中央局)、建国後は「中共中央「地名」+局」に改めて統一されました。その名称の統一にも、もちろん党中央の意図が反映されています。そのため、この組織を何と呼ぶかは悩ましい問題なのですが、しかし結局は、当時の状況を重視するためにも、本書で主に取り上げた1950、60年代の公式文書でよく使われる「中央局」の呼び方に従うことにしました。読者の方々には、そうした言葉に込められた、当時の党中央の政治意図を感じ取っていただければと思っています。