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Commentary

著者に聞く⑪――家近亮子さん
『蔣介石――「中華の復興」を実現した男』(筑摩書房、2025年8月)

家近亮子
敬愛大学国際学部客員名誉教授
政治
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著者が蔣介石の個人研究を始めた動機の一つには、2番目の正妻であった陳潔如の存在を蔣の人生の中に位置づけ、明らかにしなければならないという使命感にも似た思いがあった。写真は台北で開かれた「蔣介石日記」の発表会。2023年10月31日(共同通信社)
著者が蔣介石の個人研究を始めた動機の一つには、2番目の正妻であった陳潔如の存在を蔣の人生の中に位置づけ、明らかにしなければならないという使命感にも似た思いがあった。写真は台北で開かれた「蔣介石日記」の発表会。2023年10月31日(共同通信社)

問5 とはいえ、公職にある人物が後世に残す意図をもって書かれた史料である以上、「日記」も万能ではありません。利用する上での留意点や問題点など、教えていただけるでしょうか。

(家近)「日記」の史料としての問題点は、以下の点にまとめることができると思います。

① どこまで正確に文字を読み取ることができるか

「日記」は、毛筆で書かれたものをマイクロフィルム化し、打ち出したものを緑色の紙にコピーしてあるため(目立って、持ち出しができないためか?)、黒く潰れて読み取れない文字が少なからずあります。また、蔣自身のくせ字、崩し字も多く存在するため、完全に、かつ正確に書き写すことは極めて困難な作業となります。現物を参照できないという条件下においては、判読不明な文字は推測の域を出ることができないままとならざるを得ないという問題があります。

② 1917年以前の蔣介石の履歴の再現問題

実は、蔣介石は1912年から日記を書いていました。しかし、拙著の第3章で述べたように1918年12月の福建軍との戦闘の中で1917年より前の「日記」を失います。それ以前の記録は蔣介石の回憶(「中華民国六年前事略」)として残されているため、日付等に曖昧な点が多く見られます。そのため、他の資料での確認が必要となります。

③ 1924年の欠落問題

「日記」は、1924年分が完全に欠落しています。この問題に関しては、これまでさまざまな説が伝えられてきました。最も有力であった説は、南京の「第二歴史檔案館」が所蔵しているというものでした。しかし、第二歴史檔案館側はこれを否定しています。一説によると、この年の「日記」は中国共産党が「盗みだし」、その後廃棄、もしくは紛失したため現存しないということです(編集部:第二歴史檔案館については、中村元哉「中国近現代史研究者への逆風と活路」もご参照ください)。

中国近代史において、1924年は第一次国共合作成立の年であり、また蔣自身も黄埔軍官学校の校長に就任した重要な年です。この年の「日記」の欠落は、研究上大きな損失であると思います。

④ 本人および遺族による削除作業――陳潔如問題

「日記」の記述には明らかに削除された痕跡があるものが少なからず存在します。黒い墨で消された箇所は光にあてると、うっすらと見えることがありますが、紙を貼って、さらに黒く塗りつぶしている箇所は、まったく判読不明です。このような削除作業は、1925年~27年のものに集中して見られるように思います。これは、ある遺族へのインタビューにより、ほとんどが陳潔如に関する記述だと分かりました。遺族としては、蔣の潔如との生活の実態や彼女に対する思いが書かれている箇所を残し、公にすることは、亡き美齢や子孫への配慮からできなかったということです。遺族による削除作業が完成した後、「日記」は公開されたようです。

⑤「日記」の現在の所在

台湾の國史館は、2015年に「日記」返還を求める訴訟を起こしました。その結果、2023年になって、文化遺産として台湾が「日記」を管理することが決定し(遺族16人が同意)、返還されました。同年、1948年から54年の「日記」が國史館から出版されています(表紙写真)。

現在、國史館はフーヴァー研究所と同じ条件で「日記」を閲覧することを可能としています。出版された年のものは、データベースで閲覧することができます。國史館は、54年以降の「日記」を順次出版する予定としています。

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