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Commentary

中国の国益を損なう「国家安全」重視路線
経済と学術研究に深刻な悪影響

李昊
東京大学大学院法学政治学研究科准教授、日本国際問題研究所研究員
政治
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中国の国家安全は、世界に対して国を開き、相互理解を深め、経済発展を実現し、平和共存を追求することによって成し遂げられてきた。中国は今一度、世界に開かれた国に立ち返らなければならない。写真は「国家安全」の重要性を訴える習近平総書記の言葉。2022年10月(共同通信社)
中国の国家安全は、世界に対して国を開き、相互理解を深め、経済発展を実現し、平和共存を追求することによって成し遂げられてきた。中国は今一度、世界に開かれた国に立ち返らなければならない。写真は「国家安全」の重要性を訴える習近平総書記の言葉。2022年10月(共同通信社)

今、多くの日本人にとって、再び中国は訪れ難い国になっている。かつて日本人が享受できていた中国へのビザなし渡航がコロナ禍以降停止している面もあるものの、相次ぐ日本人の拘束、そして日本人を標的とした殺傷事件の発生が大きな影響を与えている。一般市民までも中国に行くと捕まる可能性やヘイトクライムの被害に遭う可能性があるのではないかと恐怖を感じ、ビジネスの駐在はおろか、留学、出張、観光までも控える動きが広がっている。これは日本に限らず、世界中で発生している事象である。

「国家安全」の恐怖

多くの人が中国への渡航をためらう背景にあるのは、習近平政権の「国家安全」重視の姿勢であろう。今や習近平政権の最重要政治課題は「国家安全」であるというのが中国政治研究者の共通認識である。10年前の2014年4月15日、新たに設立された中央国家安全委員会の第一回会議において、習近平中国共産党総書記は「総体的国家安全保障観」なる概念を打ち出した。そこで中国の考える安全保障に対外的な安全保障のみならず、国内の安定維持も含まれるらしいことが海外の中国研究者たち理解するところとなった。その後、10年にわたって国家秘密保護法、反スパイ法、国家安全法、インターネット安全法、国家情報法など、次から次へと新たな法律が制定され、指導者たちは繰り返し「国家安全」に言及するようになった。4月15日は「全民国家安全教育日」に制定され、各地で宣伝活動が繰り広げられている。中国の政治スローガンや法律は空虚なものになることも往々にしてあるのだが、この「総体的国家安全保障観」は実に真剣に尊重され、国家安全関連法も有効に執行されているようだ。

2015年の反スパイ法(2023年改訂)施行以降、17人もの日本人がスパイ容疑で拘束されたことは、中国における「国家安全」の恐怖を雄弁に物語っている。いかなる国においてもスパイ行為は存在する。その意味で、中国当局に拘束された者がすべて冤罪(えんざい)であるというわけではないかもしれない。しかし、問題は不透明性である。どのような行為がスパイ行為にあたるのかの定義が曖昧であり、解釈次第では法の恣意(しい)的な運用が可能である。また、拘束された後も、どのような理由で拘束されたのかについて外国政府やメディアに説明されることはほとんどない。いくら中国当局が「誤解」を解こうと努めたところで、不信感は払拭されない。

「国家安全」と経済

この「国家安全」重視路線の一つの深刻な影響は、経済活動への打撃である。3年にわたるゼロコロナ政策、特に2022年の上海のロックダウンを経て、中国経済は著しく減速した。2023年の国内総生産(GDP)成長率はかろうじて5.2%を達成したが、それはコロナ禍からの回復という要素が加味されたもので、足元の景気は悪い。不動産市場が低迷し、若者の失業率も高止まりしている。このような状況において頼みの綱であるはずの外資企業は投資を抑制している。2023年には、7〜9月の国際収支で外資による直接投資がついにマイナスになった。「国家安全」重視路線に対する懸念が主要な原因であることはいうまでもないだろう。従業員がいつどのような理由で拘束されるかわからない国でビジネスを展開するリスクは大きく、そうしたリスクを理由として撤退や事業縮小を検討する企業が出てきている。

李強総理は危機感を覚え、投資へのアピールに余念がないが、外資企業の不信感を払拭するには至っていない。国家安全を司(つかさど)る部門が経済情勢にほとんど関心を有していないことを外資企業はよく理解しているのだ。

「国家安全」と学術研究

「国家安全」重視路線が深刻な影響を与えているもう一つの分野は学術研究である。日本人では、2019年9月に北海道大学の岩谷將(いわたに のぶ)教授が一時拘束された。岩谷氏は近代史の研究者であり、中国に対する批判的な言動が目立つ人物でもなかった。それが中国側の研究機関の招待に応じて会議に出席していたところを拘束された。安倍晋三総理が直接中国側の王岐山国家副主席や李克強総理(肩書はすべて当時)に抗議したこともあって、数カ月の拘束ののち釈放されたが、所属学会や日本国際問題研究所が懸念を表明するなど、日本の学術界に大きな衝撃が広がった。この影響もあって、2019年秋以降、日本人の中国研究者の絶対的大多数が中国への訪問を控えるようになった。コロナ禍の後もこの状況はそれほど変わっていない。日本に限らず、米国なども同様の状況であり、世界的に中国との学術交流が大きく減少している。

海外に居住する中国人研究者も困難に直面している。日本では、2013年に朱建栄・東洋学園大学教授、2014年に王柯・神戸大学教授、2016年に趙宏偉・法政大学教授が相次いで中国で拘束された。幸いいずれも解放されたが、2019年以降、再び中国人研究者の拘束が相次いでいる。2019年に袁克勤・北海道教育大学教授が拘束され、その後起訴されたことが確認された。2024年春には、胡士雲・神戸学院大学教授、范雲濤・亜細亜大学教授と連絡が取れなくなっていることが相次いで明らかになった。状況はいっそう深刻になっている。中国国籍の場合、居住国の政府ができることは極めて限られるため、拘束のリスクはいっそう高い。そのため、海外在住中国人研究者の多くは帰国を控えるか、決死の覚悟を持って帰国するしかない。筆者にとっても他人事ではなく、中国への入国は2016年が最後である。

このグローバル化と情報化が進んだ現代において、中国研究はまるで数十年前、毛沢東時代にタイムスリップしたかのようである。海外の中国研究者たちは、資料調査もフィールドワークもインタビューも諦め、中国を訪問することなく、公刊資料やインターネットの世界から漏れ伝わる情報を頼りに、すぐ近くにあるはずの研究対象を眺めている。多少の研究者間の交流は依然として続けられているものの、中国国内の研究者に対する締め付けも厳しくなり、外国人との交流に二の足を踏む研究者も多い。もちろん、研究者たちの努力によって、優れた研究業績や分析成果が絶えず発表されているものの、現場感覚が伴わないものにならざるを得ない。研究者の中国理解が深まらなければ、彼らの知見を受け取るメディアや政治家の中国理解も偏ったものになってしまう。それが誤った外交政策につながってしまうリスクも高まるだろう。健全な学術交流の欠如は、深刻な影響を多方面に及ぼしかねない。

「国家安全」という隘路

中国の今日の過度な「国家安全」重視路線は、外国に対する根強い不信感や習近平という政治指導者の秩序と安定を何より好む姿勢に由来している。しかし、結果として外国の中国に対する不信感と懸念をいたずらに煽(あお)り、深刻な悪影響を及ぼしている。投資を減らし、人的交流を減らし、外国の中国理解を妨げ、中国の評価を著しく損ねている。まさしく自分で自分の首を絞めている状況である。

いかなる国家にとっても、国家の安全や生き残りが決定的に重要であることは否定しない。しかし、1980年代以降、中国の国家安全は、世界に対して国を開き、相互理解を深め、経済発展を実現し、平和共存を追求することによって成し遂げられてきた。「長江と黄河は逆流しない」。中国は今一度、世界に開かれた国に立ち返らなければならない。

*本稿は、霞山会発行『東亜』2024年6月号に掲載された記事を転載・加筆したものである。

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