Commentary
中国の国益を損なう「国家安全」重視路線
経済と学術研究に深刻な悪影響
「国家安全」と学術研究
「国家安全」重視路線が深刻な影響を与えているもう一つの分野は学術研究である。日本人では、2019年9月に北海道大学の岩谷將(いわたに のぶ)教授が一時拘束された。岩谷氏は近代史の研究者であり、中国に対する批判的な言動が目立つ人物でもなかった。それが中国側の研究機関の招待に応じて会議に出席していたところを拘束された。安倍晋三総理が直接中国側の王岐山国家副主席や李克強総理(肩書はすべて当時)に抗議したこともあって、数カ月の拘束ののち釈放されたが、所属学会や日本国際問題研究所が懸念を表明するなど、日本の学術界に大きな衝撃が広がった。この影響もあって、2019年秋以降、日本人の中国研究者の絶対的大多数が中国への訪問を控えるようになった。コロナ禍の後もこの状況はそれほど変わっていない。日本に限らず、米国なども同様の状況であり、世界的に中国との学術交流が大きく減少している。
海外に居住する中国人研究者も困難に直面している。日本では、2013年に朱建栄・東洋学園大学教授、2014年に王柯・神戸大学教授、2016年に趙宏偉・法政大学教授が相次いで中国で拘束された。幸いいずれも解放されたが、2019年以降、再び中国人研究者の拘束が相次いでいる。2019年に袁克勤・北海道教育大学教授が拘束され、その後起訴されたことが確認された。2024年春には、胡士雲・神戸学院大学教授、范雲濤・亜細亜大学教授と連絡が取れなくなっていることが相次いで明らかになった。状況はいっそう深刻になっている。中国国籍の場合、居住国の政府ができることは極めて限られるため、拘束のリスクはいっそう高い。そのため、海外在住中国人研究者の多くは帰国を控えるか、決死の覚悟を持って帰国するしかない。筆者にとっても他人事ではなく、中国への入国は2016年が最後である。
このグローバル化と情報化が進んだ現代において、中国研究はまるで数十年前、毛沢東時代にタイムスリップしたかのようである。海外の中国研究者たちは、資料調査もフィールドワークもインタビューも諦め、中国を訪問することなく、公刊資料やインターネットの世界から漏れ伝わる情報を頼りに、すぐ近くにあるはずの研究対象を眺めている。多少の研究者間の交流は依然として続けられているものの、中国国内の研究者に対する締め付けも厳しくなり、外国人との交流に二の足を踏む研究者も多い。もちろん、研究者たちの努力によって、優れた研究業績や分析成果が絶えず発表されているものの、現場感覚が伴わないものにならざるを得ない。研究者の中国理解が深まらなければ、彼らの知見を受け取るメディアや政治家の中国理解も偏ったものになってしまう。それが誤った外交政策につながってしまうリスクも高まるだろう。健全な学術交流の欠如は、深刻な影響を多方面に及ぼしかねない。
「国家安全」という隘路
中国の今日の過度な「国家安全」重視路線は、外国に対する根強い不信感や習近平という政治指導者の秩序と安定を何より好む姿勢に由来している。しかし、結果として外国の中国に対する不信感と懸念をいたずらに煽(あお)り、深刻な悪影響を及ぼしている。投資を減らし、人的交流を減らし、外国の中国理解を妨げ、中国の評価を著しく損ねている。まさしく自分で自分の首を絞めている状況である。
いかなる国家にとっても、国家の安全や生き残りが決定的に重要であることは否定しない。しかし、1980年代以降、中国の国家安全は、世界に対して国を開き、相互理解を深め、経済発展を実現し、平和共存を追求することによって成し遂げられてきた。「長江と黄河は逆流しない」。中国は今一度、世界に開かれた国に立ち返らなければならない。
*本稿は、霞山会発行『東亜』2024年6月号に掲載された記事を転載・加筆したものである。