Commentary
中国の国益を損なう「国家安全」重視路線
経済と学術研究に深刻な悪影響
今、多くの日本人にとって、再び中国は訪れ難い国になっている。かつて日本人が享受できていた中国へのビザなし渡航がコロナ禍以降停止している面もあるものの、相次ぐ日本人の拘束、そして日本人を標的とした殺傷事件の発生が大きな影響を与えている。一般市民までも中国に行くと捕まる可能性やヘイトクライムの被害に遭う可能性があるのではないかと恐怖を感じ、ビジネスの駐在はおろか、留学、出張、観光までも控える動きが広がっている。これは日本に限らず、世界中で発生している事象である。
「国家安全」の恐怖
多くの人が中国への渡航をためらう背景にあるのは、習近平政権の「国家安全」重視の姿勢であろう。今や習近平政権の最重要政治課題は「国家安全」であるというのが中国政治研究者の共通認識である。10年前の2014年4月15日、新たに設立された中央国家安全委員会の第一回会議において、習近平中国共産党総書記は「総体的国家安全保障観」なる概念を打ち出した。そこで中国の考える安全保障に対外的な安全保障のみならず、国内の安定維持も含まれるらしいことが海外の中国研究者たち理解するところとなった。その後、10年にわたって国家秘密保護法、反スパイ法、国家安全法、インターネット安全法、国家情報法など、次から次へと新たな法律が制定され、指導者たちは繰り返し「国家安全」に言及するようになった。4月15日は「全民国家安全教育日」に制定され、各地で宣伝活動が繰り広げられている。中国の政治スローガンや法律は空虚なものになることも往々にしてあるのだが、この「総体的国家安全保障観」は実に真剣に尊重され、国家安全関連法も有効に執行されているようだ。
2015年の反スパイ法(2023年改訂)施行以降、17人もの日本人がスパイ容疑で拘束されたことは、中国における「国家安全」の恐怖を雄弁に物語っている。いかなる国においてもスパイ行為は存在する。その意味で、中国当局に拘束された者がすべて冤罪(えんざい)であるというわけではないかもしれない。しかし、問題は不透明性である。どのような行為がスパイ行為にあたるのかの定義が曖昧であり、解釈次第では法の恣意(しい)的な運用が可能である。また、拘束された後も、どのような理由で拘束されたのかについて外国政府やメディアに説明されることはほとんどない。いくら中国当局が「誤解」を解こうと努めたところで、不信感は払拭されない。
「国家安全」と経済
この「国家安全」重視路線の一つの深刻な影響は、経済活動への打撃である。3年にわたるゼロコロナ政策、特に2022年の上海のロックダウンを経て、中国経済は著しく減速した。2023年の国内総生産(GDP)成長率はかろうじて5.2%を達成したが、それはコロナ禍からの回復という要素が加味されたもので、足元の景気は悪い。不動産市場が低迷し、若者の失業率も高止まりしている。このような状況において頼みの綱であるはずの外資企業は投資を抑制している。2023年には、7〜9月の国際収支で外資による直接投資がついにマイナスになった。「国家安全」重視路線に対する懸念が主要な原因であることはいうまでもないだろう。従業員がいつどのような理由で拘束されるかわからない国でビジネスを展開するリスクは大きく、そうしたリスクを理由として撤退や事業縮小を検討する企業が出てきている。
李強総理は危機感を覚え、投資へのアピールに余念がないが、外資企業の不信感を払拭するには至っていない。国家安全を司(つかさど)る部門が経済情勢にほとんど関心を有していないことを外資企業はよく理解しているのだ。