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Commentary

犠牲者意識ナショナリズムをどう乗り越えるか
石破所感から日中台「歴史認識」問題を読み解く

平井新
東海大学政治経済学部特任講師
国際関係
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村山談話以降の首相談話の蓄積は、被害国の脅威認識を直接軽減する効果だけでなく、多層的な政治資源として機能し得る。写真は首相官邸で戦後80年に合わせた「内閣総理大臣所感」の発表を終え、引き揚げる石破首相(左端、当時)。2025年10月10日(共同通信社)
村山談話以降の首相談話の蓄積は、被害国の脅威認識を直接軽減する効果だけでなく、多層的な政治資源として機能し得る。写真は首相官邸で戦後80年に合わせた「内閣総理大臣所感」の発表を終え、引き揚げる石破首相(左端、当時)。2025年10月10日(共同通信社)

林志弦が論じるように、「歴史問題」は事実認定の争いというより、自らを犠牲者として語る記憶をめぐるナショナリズムの装置である。リンドが指摘するバックラッシュも、旧加害国内部における「自国こそ犠牲者だ」という対抗的記憶の形成として捉えるべきであり、日本における原爆被害の記憶や特攻隊などの「英霊」賛美は犠牲者意識の競合という文脈で理解できる。さらに重要なのは、犠牲者意識が脅威認識に転化するメカニズムが体制によって異なる点である。民主主義体制の日韓間では情報の非対称性が小さく、犠牲者意識ナショナリズムは脅威認識とは分離されている。これに対し権威主義体制下の中国では、「日本は歴史を反省していない」「軍国主義復活の兆候がある」というナラティブが党国メディアによって情報統制下で増幅される。こうした環境で世論が対外的に硬化し、それを党がコントロールできなければエスカレーションの末に偶発的衝突の蓋然性(がいぜんせい)が高まり得る。しかも権威主義体制は民主主義社会の開放性を逆手に取り、日本国内の多様な言論から都合のよい声を選択的に拾い上げて「これが日本社会の本音だ」と提示する。いわば「寛容のパラドクス」により、民主主義の多元性が権威主義のナラティブ戦略に利用されることで、台湾海峡における「武力による現状変更」に正当性が付与されかねない。

ソフトパワーとしての歴史認識

この文脈で、謝罪と歴史認識の戦略的意義を再定式化できる。村山談話以降の首相談話の蓄積は、被害国の脅威認識を直接軽減する効果だけでなく、多層的な政治資源として機能し得る。

第一に、侵略と植民地支配を誤りと認める蓄積は、認知戦における情報非対称性を縮減し、権威主義体制によるナラティブの正当性を掘り崩す。日本政府が公式に自らの負の歴史と向き合う声明を出し続けることは、日本社会自身への道徳的な自己拘束であると同時に、戦争や侵略、植民地支配を肯定しない国際規範を近隣諸国と共有する資源となる。かつての被害国が将来加害行為に踏み出す場合にも、過去の日本に対して用いてきた道徳的言辞が跳ね返り、対外強硬路線への批判を喚起することにつながる。

第二に、日本政府が「過去の歴史問題と向き合う」という立場を蓄積させることで、欧米諸国やグローバル・サウスという国際世論への説得の資源ともなる。「過去の侵略・植民地支配を反省するからこそ、権威主義国家による現状変更を防ぐ」という立場から、地域の安全保障における日本の役割を国際世論に説得的に示すことができる。日本が戦後80年間対外的な戦争に参加せず、複数回にわたり戦争責任を認めてきた事実を提示することは、中国による「日本の軍国主義復活」ナラティブへの有効な反撃となる。

とりわけ「台湾有事」をめぐる議論において、この視点は重要な意味を持つ。台湾は1895年から1945年まで日本の植民地支配下にあり、2025年は「台湾光復80周年」でもある。日本がかつて台湾を植民地として支配した歴史を踏まえるならば、日本政府が台湾海峡の平和と安定に関与する際の論理は、単なる安全保障上の利害得失のみから導き出されるものではない。むしろ、過去の植民地支配への反省にもとづくからこそ、台湾住民の意思を無視した武力による現状変更は絶対に許容されないというメッセージが道徳的意義を持つのではないか。

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