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Commentary

政治と消費を切り分ける市民のプラグマティズム
高市発言から日中「歴史認識」問題を読み解く

平井新
東海大学政治経済学部特任講師
国際関係
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中国政府の「制裁」措置が外交カードになること自体、留学や旅行、ポップカルチャーを通じた日中間の文化交流がいかに浸透しているかを逆説的に示している。写真は「鬼滅の刃」が上映される北京の映画館で、記念撮影をするコスプレ姿の人。2025年11月14日(共同通信社)
中国政府の「制裁」措置が外交カードになること自体、留学や旅行、ポップカルチャーを通じた日中間の文化交流がいかに浸透しているかを逆説的に示している。写真は「鬼滅の刃」が上映される北京の映画館で、記念撮影をするコスプレ姿の人。2025年11月14日(共同通信社)

制度化された戦争の記憶

918、77、1213。これらの数字列を見聞きして、すぐにピンとくる日本人はあまり多くないかもしれない。しかし中国では、918は「九一八事変」(満洲事変の発端となった柳条湖事件、1931年9月18日)、77は「七七事変」(日中戦争全面化の発端となった盧溝橋事件、1937年7月7日)、1213は「南京大虐殺」(南京事件、1937年12月13日)の日付として、それに前後する時期にはオンライン上でも「勿忘国耻」(国恥を忘れるなかれ)という言葉とともに、「民族の屈辱」と「抗戦の記憶」を呼び起こす作用を持ち得る。

この日付の「重み」を理解していなかった日本企業が批判に晒(さら)された事例もある。2021年、ソニー中国法人は新製品発表を7月7日に予告し、100万元の罰金を科された。

2024年9月18日には広東省深圳の日本人学校の児童が登校中に刃物で襲撃され亡くなる事件が起きた。動機不明のまま被告人に死刑が執行されたため真偽は定かではないが、柳条湖事件の日に日本人を狙った犯行ではないかという見立てもある。事件以降、現地の日本人学校ではこれらの歴史的事件の日付には休校としたり、登校をとりやめてオンライン授業としたりするなどの措置が広がっているという。

こうした日中戦争をめぐる歴史記憶は、近年、国家レベルで制度化も進んでいる。習近平政権下の2014年2月、全国人民代表大会常務委員会は9月3日を「中国人民抗日戦争勝利記念日」に、12月13日を「南京大虐殺犠牲者国家追悼日」と定めた[7]。2015年の戦後70周年から「中国人民抗日戦争および世界反ファシズム戦争勝利」を記念する軍事パレードが北京で行われるようになり、今年(2025年)は戦後80周年として二度目の記念式典とパレードが行われた。これらは制度化された戦争の記憶の延長線上にあり、中国共産党による統治の正当性を内外に再確認する儀式としての側面を強く持っている。

「反日プロパガンダ」の先に―中国世論の多様性

しかし、中国社会における歴史認識は、単なる官製ナショナリズムの投影にとどまらない。80周年に合わせて南京事件をテーマに扱った『南京照相館』と旧日本軍の731部隊をテーマに扱った『731』という二本の劇映画が公開され、後者は柳条湖事件の9月18日に合わせて公開された。両作品への対照的な評価は、抗日戦争時期の負の歴史を題材とする映画について、中国社会を当局の「プロパガンダに煽動されている」と切って捨てることはできない好例と言えよう。

前者は感動大作として話題を呼んだが、後者は時代考証を無視した荒唐無稽な内容が観客に支持されなかった。中国の大手映画情報サイトでは興行収入約20億元とされるヒット映画『731』の点数評価は見られなくなっている。中国の質問サイト「知乎」では、海外映画情報サイトIMDbで『南京照相館』が8.1点という高スコアを記録した一方、『731』は2点台と低迷していることの理由について、「『南京照相館』が8.1点なのだから、海外勢力のネガティブキャンペーンという言い訳は通用しない」といった冷静な分析も見られる。

日本の言説空間では、中国でこうした日中戦争を題材とする映画が製作されると、直ちに「反日感情の煽動」と結びつけられがちだ。しかし、ナチズムやスターリニズムの国家暴力を描いた映画が「反ドイツ」「反ロシア」のプロパガンダ映画と言われることはないように、日中戦争時の日本軍の加害行為を題材とした映画を制作・上映することはそれ自体何ら不思議なことではない。自国のものであれ、他国によるものであれ、過去の国家暴力を記憶し語り継ぐことは、旧加害国の現在の政権を敵視することとは別の営みである。もし両者が同一視されるとすれば、それはむしろ旧加害国側の政府や社会が自国の負の歴史から目を背けようとしていることの表れではないだろうか。他方、過去の負の歴史を記憶することと、旧加害国の国籍を有する現代の人々を憎悪の対象とすることもまた全く異なる。もしこの二つを同一視する言説があるなら、それは民族浄化を正当化するファシズムの論理として、国籍や民族を問わず非難されなければならないだろう。

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