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Commentary

損保社員が見た中国ビジネスの現場
門戸をこじ開けるための苦労

伊藤博
公益財団法人東洋文庫研究員
経済
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所有権が錦江グループに移行した後も、花園飯店のマネジメントはオークラニッコーホテルマネジメントが担当しており、日本流のサービスを継続している。写真は合作プロジェクトで建設された花園飯店のメインビル。Wikipedia「オークラガーデンホテル上海」の項より転載。
所有権が錦江グループに移行した後も、花園飯店のマネジメントはオークラニッコーホテルマネジメントが担当しており、日本流のサービスを継続している。写真は合作プロジェクトで建設された花園飯店のメインビル。Wikipedia「オークラガーデンホテル上海」の項より転載。

「最大の売り」が骨抜きに

2000年代半ばに、東京海上は中国の保険会社と合弁で保険ブローカー会社を立ち上げようとした。保険ブローカー会社とは、「顧客(保険契約者)のために、保険を付けるべき保険会社を選び、推薦する仲立ち人」である。法人の保険契約は複雑な内容となることが一般的なので、特に海外では保険ブローカー会社が保険契約を仲介することが多い。一方、「保険代理店」はなじみが深いが、こちらは「保険会社を代理して、顧客と保険契約を締結し、保険料を収受する」組織であり、個人が顧客であることが多い。

東京海上が設立しようとした合弁保険ブローカー会社は、社内に東京海上派遣の技術者を擁し、他社にはない「顧客を取り巻くリスク全般を分析し、それに対処する方法を提案するサービス」を提供することによって、中国で独自の地位を占めることを目指していた。つまり、リスクマネジメントサービスの提供が新設保険ブローカー会社の最大の売りであり、それをテコにして、業容を拡大しようということで、日中双方が合意した。しかし、東京海上派遣の技術者に関する人件費は東京海上負担であり、合弁会社には追加の費用負担は生じないにもかかわらず、中国側派遣の合弁会社総経理(社長)の意向で、当該技術者は徐々に排除された。当初は、会社としてリスクマネジメントサービスを提供しようと努めたが、中国市場には当該サービス導入は時期尚早ということになり、最終的には他の保険ブローカー会社と変わらない普通の会社になってしまった。競争力の源泉であり、差別化のポイントである「最大の売り」が否定されるとは予想できなかった。東京海上は、中国の個人マーケットにアクセスするには、販売網設置に膨大なコストがかかると想定していたので、この保険ブローカー会社を通じて、「中国の法人マーケットの特質をつかみたい」と希望していたが、その願いはあまり実現しなかった。

巧妙に進められた金融市場の対外開放

ここで、中国における金融市場の対外開放全般について、振り返ってみたい。中国で保険を含む金融市場の対外開放が意識され始めたのは、1980年代後半だった。それ以前も、深圳などの経済特区で外資系銀行の支店営業が認可されていたが、上海などの重要都市の扱いが検討されたのは、1980年代末のことだった。それまで、PICCなど中国の保険会社幹部は、外資の参入を「狼が来る!」と言って、強く警戒しており、市場開放はかなり先になると見込まれていた。

その雰囲気が大きく変わったきっかけは、1989年の6・4天安門事件以降に実施された欧米等の中国に対する経済制裁だった。中国は、経済制裁緩和のために金融市場の対外開放を利用しようとした。当時上海市長だった朱鎔基(しゅようき)は、中央政府に働きかけ、米国政府の求めに応じて、米国AIG社に生損保(生命保険と損害保険)の営業認可を与えることを提案した。中央政府は、それを米国に経済制裁の一部を緩和してもらうための取引材料として活用した。AIGは、1992年に上海で生損保の営業認可を取得した(六四回顧録編集委員会、2020)。

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