Commentary
DeepSeekの衝撃
米中の「覇権争い」という誤解

中国杭州市の投資ファンド、幻方量化(High-Flyer)は2025年1月15日に生成AIアプリDeepSeek-V3を一般向けに無料公開した。これがなんとOpenAIのGPT-4oを上回るほど賢く、しかも557.6万ドルという超低コストで作られたというので世界を揺るがす大騒動になっている。
DeepSeek――その衝撃の性能
この衝撃でAI向けIC最大手のエヌビディアの株価が1月27日には前日の142.6ドルから118.6ドルへ暴落し、時価総額にして5890億ドルが一日で蒸発した。その情報を伝えたNHKのニュースは、生成AIをめぐる米中の「覇権争い」がますます激しさを増すでしょう、と結んだ。
このニュースを聞いて、私のなかで二つの疑問が湧いてきた。第一に、果たして今起きていることは米中の「覇権争い」なのだろうか。第二に、なぜICメーカーであるエヌビディアが下がるのだろうか。
まず一つめの疑問について検討する。
たしかに生成AIを作るアメリカの企業、たとえばChatGPTを作っているOpenAIやClaudeを作っているAnthropicなどにとって、DeepSeekの登場は衝撃であるに違いない。OpenAIやAnthropicが月18~20ドルで提供しているのと同じレベルのサービスをDeepSeekはタダで提供し始めたのだから。
DeepSeek-V3のウェブサイトに掲載されている生成AIの能力に関する成績表によると、英語による学部生レベルの知識を問うMMLU-Proという試験ではDeepSeekは75.9点で、Claude-3.5(78.0点)よりやや低いが、GPT-4o(72.6点)を上回っている。数学や中国語の能力においてはDeepSeek-V3はかなりの大差で上回っているし、コーディングでも7種類の試験のうち二つではClaude-3.5に負けているものの、他の5つの試験の成績ではGPT-4oとClaude-3.5のいずれよりも優れている。
生成AIの「覇権争い」は起きない
今後、DeepSeek、GPT、Claude、それにメタのLlamaやアリババのQwenなどが加わって、バージョンアップするたびに抜きつ抜かれつの競争が繰り広げられていくであろう。だが、こうした競争を指して「覇権争い」と呼ぶのはミスリーディングである。
「覇権(ヘゲモニー)」とは、ある国や勢力が政治力や軍事力などで他の国や勢力を圧倒する状況を指す。そこから転じて、特定の企業や技術が圧倒的なシェアを持つときに「覇権を握った」と表現することもある。但し、「覇権」が成り立つのは、その企業ないし技術を利用することが、他の企業や技術を利用することの妨げとなったり、他を利用する必要がなくなったりするときである。
企業や技術の間の競争を「覇権争い」と呼ぶのにふさわしい例としてパソコンのOS(基本ソフト)を挙げることができる。OSでは過去30年ほどにわたってマイクロソフトのWindowsが圧倒的なシェアを占めてきた。パソコンにWindowsが入っていれば、他のOSを使う必要がないのでWindowsには排他性があり、Windowsは覇権を握っているといってよい。
一方、生成AIには排他性がない。ある人がDeepSeekをスマホにインストールして使い始めたとしても、その人はChatGPTやClaudeも使い続ける可能性がある。英語文の文法チェックをするときは英語が得意なClaudeを使い、中国語で文章を書いたときや数学の問題を解きたいときはDeepSeekに任せるといった使い分けもできる。DeepSeekが登場するや、日本の新聞・テレビはこぞってDeepSeekに「天安門事件の真相を語れ」とか「なぜ習近平はクマのプーさんと呼ばれるのか」とか入力して、あいまいな解答ではぐらかしたといって騒いでいるが、なんだかイスラム教徒に「豚足料理を作りなさい」といってイジメている観がある。もし中国共産党が嫌がる話題を生成AIと語り合いたいのであれば、ChatGPTやClaudeなどを使えばいいのではないか。利用者は複数の生成AIを並行して使うことが可能である以上、パソコンのOSのようにどれかが覇権を握るということにはならないだろう。
生成AIへの需要は大きく広がる
第二の疑問、つまりなぜエヌビディアの株価が暴落したかに関するメディアの説明は次の通りである(Morrow, 2025)。OpenAIはGPT-4oを開発するのに1億ドルの資金を投入し、エヌビディアの最新のICを25000個使ったのに対して、DeepSeek-V3 はそれよりも性能の劣るICを2000個ほど使い、投資額は600万ドル足らずであった。これまでアメリカの経済界では、生成AIの開発には大量のICと資金と電気が必要だといわれてきたが、DeepSeekの登場はこうしたシナリオを根底から覆した。もはやエヌビディアの高価なICが大量に消費されることはないと予測され、その株価が暴落したというのである。
だが、DeepSeekの無料生成AIの登場は生成AIの利用に対するハードルをグッと引き下げるであろう。これまで生成AIを使わないでいた私もDeepSeek-V3をスマホにダウンロードして使い始めたぐらいだ。これからは生成AIがインターネット上だけでなく、さまざまな機器に組み込まれていく。2月10日にはEVメーカーのBYDが全車種に高度運転支援システム(ADAS)を搭載することを発表し、車載システムにDeepSeekの生成AIを導入すると発表した(『網易新聞』2025年2月11日)。こうして生成AIの市場が大きく広がることは、AI用ICの最大のメーカーであるエヌビディアにとってむしろ追い風となるはずである。実際、1月27日に118ドル台に落ち込んだエヌビディアの株価は、2月12日には131ドルまで戻した。
アメリカの鼻を明かしたDeepSeek
DeepSeekの登場が与えたもう一つの衝撃は、アメリカ政府がこれまで中国に対して行ってきたさまざまな輸出規制が効果を上げていないことを示したことである。
アメリカ政府は2022年10月に、スーパーコンピュータの製造やAIの訓練に使う先端的ICの輸出を規制する政策を打ち出した。ICそのものの輸出を止めるだけでなく、中国企業が先端的なICを設計して台湾などに生産委託したり、あるいは国内でICを製造するために最先端の製造装置を輸入したりすることまで制限した。中国がスパコンやAIでアメリカにキャッチアップするのを徹頭徹尾封じ込めようとしたのである。
だが、輸出制限が厳しすぎると、エヌビディアなどアメリカのICメーカーが中国市場を失うことになってしまう。これまでAIの世界ではエヌビディアのA100とH100というICが広く使われており、その点では中国も例外ではなかったが、規制によってそれらを中国に輸出できなくなったため、エヌビディアはアメリカ政府の規制に合致するように性能を落とした中国向けバージョンのA800とH800を開発した。H800の場合、ICチップ間のデータ転送速度がH100の半分ほどに落とされているという(Reuters, March 22, 2023)。
DeepSeek-V3のテクニカルレポート(DeepSeek-AI, 2025)によると、V3はこのH800を2048個使い、それを2か月弱にわたって訓練した。H800を総計278万8000時間(つまり2048個×24時間×約57日)動かしたので、H800を1個1時間借りる料金が2ドルだとすると、コストは557.6万ドルだったというのである。
2023年10月にアメリカ政府は規制をさらに強化し、中国はエヌビディアのA800やH800も輸入できなくなった(Henshall, 2023)。ところが、2024年11月にテンセントが発表した大規模言語モデル(LLM)「混元(Hunyuan-Large)」は、H800よりさらに低性能、従って今でも中国が輸入できるエヌビディアのH20というICを使って、メタの最新の大規模言語モデルLlama 3.1を上回る性能をたたき出したという(Booth, 2025)。
IC輸出規制の強化はアメリカの自傷行為
こうしたイタチごっこのような展開に対してアメリカの議員たちがいらだちを強め、ICの輸出規制をさらに強化しろといきり立っている(劉・屈、2025)。しかし、IC輸出規制の強化は中国の生成AIの発展に打撃を与えるよりも、むしろアメリカ政府の手でアメリカのICメーカーの首を絞める自傷行為となるだろう。というのは、アメリカからAI用ICを輸入できなくなれば、中国のAI開発業者たちは国産のICをもっと使うようになるからである。
華為(ファーウェイ)はエヌビディアのICに代替できるAI用ICとしてAscend 910シリーズを開発しており、910BはエヌビディアのA100に、910CはエヌビディアのH100に相当するといってAI開発業者に売り込んでいる(Lin and Huang, 2024)。また、AI用ICの専門メーカーとして寒武紀(Cambricon Technologies)という企業も急成長している。2024年の段階では、中国でのAI用IC市場の8割をエヌビディアが占めていたが(Mak, 2025)、エヌビディアのICが手に入らなくなれば、中国のAI開発業者は華為や寒武紀などの国産ICをもっと使うようになるだろう。国産ICの生産規模が拡大すれば、その性能や品質も向上し、中国市場だけでなく第三国市場でもエヌビディアに対抗できるようなるかもしれない。
これまでIC産業におけるアメリカ企業と中国企業の差は大きく、しかも中国はICの輸入に関税をかけていないので、中国の国産ICは苦戦してきた。しかし、アメリカがICの輸出規制を強めると、かえって中国のIC産業の発展を促す幼稚産業保護政策として機能してしまう可能性がある。
「DeepSeekの衝撃(続)――「開放性」は「地政学」に勝つ」では、新興企業のDeepSeekの生成AIがなぜ先行するOpenAIを上回る性能を出すことができたのかを解明する。
参考文献
Booth, Harry. “How China is Advancing in AI Despite U.S. Chip Restrictions.” TIME, January 28, 2025.
DeepSeek-AI, DeepSeek-V3 Technical Report, January 2025.
Henshall, Will. “What to Know About the U.S. Curbs on AI Chip Exports to China.” TIME, October 17, 2023.
Lin, Liza, and Raffaele Huang. “Huawei Readies New Chip to Challenge Nvidia, Surmounting U.S. Sanctions.” Wall Street Journal, August 13, 2024.
Mak, Robyn. “How China can keep pace in the global AI race.” Reuters, January 24, 2025.
Morrow, Allison. “DeepSeek just blew up the AI industry’s narrative that it needs more money and power,” CNN, January 28, 2025.
劉沛林・屈運栩「DeepSeek爆火 撼動AI投資和算力競争底層邏輯」『財新周刊』2025年第5期。