Commentary
中国は介護保険制度を導入すべきか――日本の経験
解題
2024年12月7日~8日に清華大学国情研究院と東京大学中国イニシアティブとの共催による「第4回清華大学・東京大学発展政策フォーラム」が東京で開催された。今回のテーマは「競争と協力――グローバルな不確定性のもとでの日中経済貿易関係」である。
12月8日には東京大学にて公開シンポジウムが開催された。そのシンポジウムで行われた講演の概要を順次紹介する。
2024年9月で日本の65歳以上の人口比率は29.3%で、世界のなかでは抜きんでて高い。2060年にはこの比率が40%になると予測されている。こうした人類史上例を見ない高齢社会を迎えるために、日本政府は20世紀末から介護保険制度の導入を検討してきた。その発端は厚生省(当時)が1989年に作成した「高齢者保健福祉推進10ヵ年戦略(ゴールドプラン)」である。その後、政党間の競争が激しくなるなかで各政党が高齢者福祉の充実を訴えるようになり、介護保険法が1997年に成立し、2000年から介護保険制度が始まった。
なぜ介護保険制度が必要になったのか
政府(厚生省)が介護保険の導入を推進した動機の一つは病院の老人ホーム化が起きていたことである。私が小学生のころ新聞を配達していた先にもそうした病院があった。記憶では200人ぐらいの高齢者が入院していて医師は院長ただ一人だけだった。入院している高齢者たちは特に体調が悪いわけではないのに老人ホーム代わりに病院に住み、病院は高齢者たちの健康状態を検査してもうけていた。こんなことが続いたら健康保険財政が破綻(はたん)してしまうので、介護保険という別の保険制度を作る必要があると考えられた。
日本では40歳以上の住民は介護保険に加入することになっており、毎月平均5488円の保険料を納めている。介護保険制度のもとで提供される介護サービスには、健康保険制度と異なり、営利企業が参入することが認められており、2020年現在介護サービス機構の57%、介護サービス従業員の33%を民間企業が占めている。
介護保険制度の開始から20年余りを経て制度もだいぶ成熟してきた。かつて介護労働は低賃金で不安定な職業と見なされていたが、2020年には介護労働者の平均賃金は全平均賃金の98%に上昇し、介護施設の従業員に占める正規労働者の比率も71%に上昇した。
介護サービスを受けようとする者はまず地元の自治体の相談窓口に連絡する。自治体はケアマネージャーを派遣し、その人に合った介護サービスへ手引きしてくれる。介護保険からの給付を受けるには介護認定を受ける必要があり、症状に応じて要支援1と2、要介護1~5の7段階のどれかに区分される。要支援や要介護の認定を受けた人数は2000年の256万人から2019年の669万人へ拡大している。
ただ、介護を必要とする人々が果たしてみな介護保険からの補助を受けられているのかは疑問である。介護サービスを求めるのはサービスを受ける本人というよりも一般にはその家族が求めることが多いと思うが、介護保険制度に対する一般の理解はどこまで進んでいるのだろうか。『日経ビジネス』2024年11月18日号「介護離職クライシス」では、軽度の認知症と思われる高齢者が家族の勧めにもかかわらず介護認定を受けないという話が出ていた。つまり、家族に介護保険に関する知識があっても、介護保険からの支援に至らないケースもあるようだ。要介護なのに介護保険からの支援を受けられない高齢者は果たしてどれぐらいいるのだろうか。
厚生労働省が実施している国民生活基本調査から、家族のなかの要介護者の数を算出すると、介護認定を受けた人の数から介護福祉施設などに居住する高齢者を引いた数とほぼ等しい。つまり、この調査によれば介護のニーズがある高齢者はほぼ介護認定を受けているということになる。しかし、国民生活基本調査の別のデータから推計すると、介護の必要があるのに認定を受けていない人が2019年時点で361万人いるという数字も導き出せる。こちらの方が実態に近いのではないだろうか。
ありがたい反面、不平等な介護保険制度
日本の介護保険制度では、介護サービスを「施設型」、「居宅型」、「地域密着型」に分類している。施設型は社会福祉法人が運営する特別養護老人ホームや老人保健施設、居宅型は市町村が管理し、地域密着型は都道府県が管理する。ややこしいことに、民間企業が運営する介護付き有料老人ホームやサービス付き高齢者向け住宅は施設型ではなく、主に居宅型に分類される。
介護保険制度のもとでさまざまな介護サービスが提供されているが、それでも介護のために働くことができない人の数は減っておらず、2019年時点で47万人に上る。また、仕事をしながら家族の介護をしている人も163万人いる。つまり、介護保険制度はあっても日本の現役世代はなお介護のために一定の時間を割いており、日本の総労働時間の2%相当が介護のために失われていると推測される。介護による労働時間の喪失は今後次第に拡大し、2065年には総労働時間の3.9%相当になると見込まれる。
現役世代の介護負担を軽減し、より多くの時間を生産的労働に充ててもらうために介護保険制度をさらに拡大するべきであろうか。しかし、そのためには人々により多くの介護保険料を納めてもらい、国家財政からの補填(ほてん)を拡大する必要があり、これは日本社会にとってなかなか難しい選択となる。
私の親族の場合、家族が認知症を疑いだしてから1年後には介護認定(要支援1)を受けて介護サービスを受けるようになったので、うまく制度につながることができたと思う。認定を受けてから1年後には本人の意志もあって介護付き有料老人ホームに入居した。それから3年余りを経過し、残念ながら認知症がさらに進行して現在は要介護5である。
この親族の場合、介護保険から月28万円余りの給付が老人ホームに対して行われている。本人から老人ホームに支払うのは月25万円ほどで、本人がもらっている年金とほぼ等しい。入居金として一時金も払ったが、それも本人の貯蓄の範囲で賄(まかな)えたので、家族の経済的負担はまったくなく、介護保険制度のありがたみを感じた。
このように、ある程度の貯蓄があり、厚生年金ももらっている高齢者の場合には、民間の介護付き有料老人ホームに入居しても介護保険によって介護費用がカバーされ、家族の経済的負担は小さい。認知症など一人で生活していくことが困難な老人がいる家族にとってはありがたい制度である。反面、介護保険制度は受給する人と受給しないまま亡くなる人の差がきわめて大きいし、介護のニーズがありながら、さまざまな理由で介護保険からの支援を受けられていない人々にとっても不平等な制度である。
健康保険や年金保険も日本では強制加入だが、保険料を納めるばかりで給付をまったく受けない人という人はごく少数であろう。(年金保険の被保険者が65歳になる前に亡くなった場合、家族には遺族年金が支給される。)それに対して、介護保険は保険料を払った人でも、介護認定を受けない限りは介護サービスを受けることができない。日本の65歳以上の人口は3600万人余りだが、介護認定を受けている人は700万人足らずである。一度も介護サービスを受けることなく死を迎える高齢者はとても多いと思われる。全員保険料を支払うのに支給を受けるのは一部だけというのは、自動車保険や火災保険など民間の保険会社が運営する保険ではよくあることだが、果たしてそうした保険を社会保険として強制すべきであろうか。
中国への導入は慎重な検討を
中国では介護保険制度は一部の地域で試験的に導入されているだけで、全国的にはまだ導入されていない。私は中国大連市で2024年8月に介護付き老人ホームを見学する機会を得たが、居室にセンサー(ミリ波レーダー)が設置されていて入居者のバイタルサインを常にモニターするなど、ハイテクの導入では日本を凌(しの)いでいた。ただ、そのホームにもし私の親族が入居した場合には月2.2万元(約45万円)以上の支払いが必要となる。中国には介護保険制度がないため、すべて本人(ないし家族)の負担である。こんなに高額な老人ホームに入居できるのは高所得層のみであろう。介護保険がないなかでは、高所得層以外は条件が悪い老人ホームか家族介護の道を選ばざるを得ない。
中国にはまだ介護福祉士を国家資格として認定する制度はなく、訪問した老人ホームの介護主任の経歴には北京の日系民間老人ホームでの勤務歴が彼の能力を証明するものとして記載されていた。20数年の実践を経て、日本の介護産業が中国にとって学習対象となるものへ成熟したことはこのケースからも見てとれる。
ただ、介護保険制度の持つ不平等性を考える時、中国に対して日本の介護産業と介護保険制度を共に導入すべきだとはなかなか言いにくい。もし人々が高齢になった時に備えて貯蓄に励み、かつ民間の介護保険に多くの人が自発的に加入するようであれば、国民全員に介護保険制度への加入を強制する必要はないのかもしれない。その場合に政府がすべきことは、金銭的な備えがないままに要介護状態になった高齢者を生活保護によって支援することであろう。また、仮に公的な介護保険制度を導入するのであれば、ドイツなどで実施しているように家族介護者に対して介護保険から給付を行うことで、介護による労働時間の減少を補うことが考えられる。現状では家族による介護が広く行われている中国では家族への支援は有効であろう。