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Commentary

損保社員が見た中国ビジネスの現場
門戸をこじ開けるための苦労

伊藤博
公益財団法人東洋文庫研究員
経済
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所有権が錦江グループに移行した後も、花園飯店のマネジメントはオークラニッコーホテルマネジメントが担当しており、日本流のサービスを継続している。写真は合作プロジェクトで建設された花園飯店のメインビル。Wikipedia「オークラガーデンホテル上海」の項より転載。
所有権が錦江グループに移行した後も、花園飯店のマネジメントはオークラニッコーホテルマネジメントが担当しており、日本流のサービスを継続している。写真は合作プロジェクトで建設された花園飯店のメインビル。Wikipedia「オークラガーデンホテル上海」の項より転載。

筆者は、東京海上火災保険(以下、東京海上)に入社後、3回中国に駐在した。1回目は1979年から1981年までで、語学研修生として北京語言学院(現北京語言大学)で中国語を学びつつ、中国の金融事情を調査した。2回目は1988年から1992年までで、北京駐在員として、日系顧客の保険アドバイザーをしつつ、中国の保険業界や監督官庁と関係を深めた。3回目は、2005年から2007年までで、北京および上海駐在員として、保険業界や監督官庁との関係を保ちつつ、東京海上上海支店の内部管理を担当した。本稿では、ほぼ30年間にわたり中国業務を担当した中で感じた「中国との付き合い方」について書いてみたい。

「最低限の希望も持ってはいけない」

1980年代の終わりころ、ある自動車メーカーの中国駐在トップから話を聞いた際、次のように言われた。「中国での交渉では、予想シナリオにあることは全て起きる。シナリオにないポイントが、本当の交渉の始まり。中国との交渉では、成り行きについて、最低限の希望も持ってはいけない」。この話を聞いた時、「交渉の成り行きについて、最低限の希望も持ってはいけない」というのはちょっと言い過ぎではないかと感じたが、その後、実際に仕事を進める中で、その言葉の意味を噛みしめることがあった。

東京海上は、1994年に上海支店を開設し、中国での直接営業を始めた。それまでは、日系顧客の案件を中国人民保険公司(People’s Insurance Company of China、以下、PICC)などへ紹介し、PICCなどからリスクの一部を「再保険」という形で引き受けるという形式だった。いわば「間接営業」から直接営業が可能になったわけで、東京海上にとっては大きな一歩だった。しかし、当時の中国は金融市場の対外開放に極めて慎重であり、外国保険会社で支店営業認可を得ることができるのは、年に1社あるかないかという状態だった。しかも、東京海上上海支店の営業範囲は、上海に拠点を持つ外国企業のみに制限されていたため、日系顧客の営業展開が中国全土に及びつつある状況から、第二支店の営業認可取得が次の大きな目標となっていた。

そこで東京海上は、2000年ころにかけて、中国政府最上層部に働きかけを行い、第二支店開設について、前向きの手ごたえを得た。当時、保険業を監督していた中国保険監督管理委員会から「第二支店開設について、認可を出すので、認可書を取りに来るように」との連絡が北京駐在員事務所に入った。東京海上は、監督官庁と接触する中で、第二支店の候補地を広州市や大連市であると伝えていたので、そのいずれかが認可されると期待した。ところが、認可書には、「上海市内において、第二の拠点を構えることを認可する」とあり、全く期待とは異なる結果となった。当時、東京海上上海支店は上海浦東地区にあったので、浦西地区に営業所を構えることとしたが、営業地域は全く広がらなかった。この時、前述の「交渉の成り行きについて、最低限の希望も持ってはいけない」ということの意味を深く噛みしめた。監督官庁は、細かいことには不案内な政府最上層部の意向を形式的には尊重しつつも、彼らの頭越しに事を進めた東京海上には実利を全く与えないという形で自らの力を示した。

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