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Commentary

中国学とSinology
「漢華圏」平和論序説

石井剛
東京大学大学院総合文化研究科教授
社会・文化
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単に「中国」を理解するためにだけではなく、漢華圏の未来を共に想像し、豊かにしていくための智慧としてこそ「中国学」はある。写真は北京の人民大会堂で日中共同声明に調印する、田中角栄首相(左)と周恩来首相(右)。1972年9月29日。(共同通信社)。
単に「中国」を理解するためにだけではなく、漢華圏の未来を共に想像し、豊かにしていくための智慧としてこそ「中国学」はある。写真は北京の人民大会堂で日中共同声明に調印する、田中角栄首相(左)と周恩来首相(右)。1972年9月29日。(共同通信社)。

サイノロジーとチャイナ・スタディーズ

「中国」は自明の概念ではありません。したがって、「中国学」は単に「中国に関する学問」ではありません。どういうことでしょうか。

試みに「中国学」を英語に翻訳してみましょう。例えば、このウェブサイト「中国学.com」は「Sinology」と訳しています。この概念は、イエズス会の宣教師たちが16世紀ごろに明朝支配下の中国を訪れ、儒学などの古典をヨーロッパに紹介したことにまで遡(さかのぼ)ることが可能な由緒ある学問の名です。

しかし、この訳に「あれっ?」と思われる方もいるのではないでしょうか。なぜChinese studiesとかChina studiesではないのでしょうか。中国を今日の世界地図を前提とした研究対象地域と見なした場合、Chinese/China studiesのほうが「中国学」と相性のよい名称のように思われたとしても何ら不思議はないですし、むしろそのほうが自然な対応関係のように感じられることかと思います。サイト運営者がなぜSinologyという概念を使うのかわたしは存じ上げませんが、Sinologyとすることによって、「中国/China」なる呼称の自明性への問いがひらかれることはまちがいありません。トップページの最上段に掲げられているとおり、このサイトが議論しようとするのは「中国の現状と未来」です。そして、「中国の現状と未来」を考えるために、「中国学」とSinologyの間にある「すきま」の存在は、この上なく重要な視点を提供しているとわたしは感じます。なぜなら、「中国」とは長い歴史と広い空間の中でとどまることなく変化し続けることによって、つねに未来を内包する豊かな概念にほかならないからです。

中国語圏では「漢学」も有力

Sinologyは今日の中国語圏では「海外漢学」と呼ぶことが多いようです。あるいは単に「漢学」という場合も、ほとんどの場合はこれを指しています。ヨーロッパの学者と話していると、最近ではSinologyがどんどんChinese studiesになってきたという感想を聞くことがよくあります。わたしが交流するのは、主に中国哲学研究者ですので、かれらの観念の中では、Sinologyは漢文文献をテクストとする研究であり、Chinese studiesは地域研究的関心からの中国研究であるという区分があるようです。つまり、Sinologyには古典研究や文献学研究のニュアンスが濃く、Chinese studiesはより社会科学的分析に傾いているということなのでしょう。

「漢学」に関しておもしろいのは、近年来、台湾で「漢学」や「国際漢学」が提唱されていることです。かれらは敢えて「中国学」ではなく「漢学」と呼ぼうとしているのですが、必ずしもSinologyばかりを指すわけではありません。わたしが関わっているものだけでも国立政治大学(台北)の羅家倫(らかりん)国際漢学講座や国立中山大学(高雄)の跨文化国際漢学之島:国際漢学平台在中山(文化横断的国際漢学の島:中山国際漢学プラットフォーム)がありますが、これらはいずれも「漢学」をSinologyと訳しています。一方、台湾政府が蒋経国時代(1970年代後半~1980年代)に教育部直轄で設置した漢学研究センターがありますが、こちらではChinese studiesと訳されています

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