Commentary
ソ連崩壊後のモスクワで、資料調査に奮闘する
中国共産党史研究者による回想録②
モスクワ行きの背景
なぜモスクワに行かねばならなかったのか?それはもちろん、私がその頃、コミンテルンと中国共産党の関係についての研究に力を入れていたからだ。本来であれば、中国共産党とコミンテルンのような上下関係において、さまざまな形式でやり取りされた情報が双方に保存されているはずである。しかし、実際の状況はといえば、モスクワが送受信したものは比較的完全な形で保存されているのに対して、中国共産党は長きにわたって「地下」に潜っていたり戦争状態であったりしたために、1927年から1932年にかけての上海にあった中央委員会のものと1935年から1949年にかけての中央委員会のもの(一部の中央局の文書を含む)が比較的よく残っているのを除けば、そのほかの時期の多くの文書は、散逸したり廃棄されたりしてしまった。例えば、もともとよく保存されていた1937年から1947年初頭にかけて中国共産党中央委員会とモスクワの間でやり取りされた電報も、国民党軍によって延安に攻め込まれ、移転を余儀なくされた毛沢東が、万一に備え、命令を下してすべて焼き払ってしまったのだ。それぞれの段階において残されてきた電報であったとしても、「檔案法(とうあんほう)」が公布されてなお、その多くは機密解除されていない(「中国中央公文書館、その謎めく内部を探訪する」参照)。仮にその方面での資料を閲覧することができたとしても、「特別許可」がない限り、引用することができない。そして、「特別許可」を得たとしても、引用する際に出典を明示することができない。
私は出典の注記という問題をとりわけ重視している。なぜならば、『党史研究』の編集部で数年間にわたり編集者をやる中で、欧米の学者からのある反応をよく耳にしたからだ。すなわち、中国共産党史を研究する中国の論文や著作には、なぜか出典が記されていないことが多く、そこで述べられていることが正確であるかどうか、検証できないというものだ。そのため、編集部では私の提案に基づき、必ず出典を注記すること、あるいは仮に細かく明記することができないとしても、少なくとも著者と文書名、年月日は記すことを作者に求め、いずれ条件が整ったときに他の人が探し出せるようにした。
ここから分かるように、コミンテルンと中国共産党の関係についての史実を探求しようとする研究者であれば、モスクワに資料調査をしに行きたいと考えるのは当然のことであった。予想だにしなかったことは、このようなチャンスが、思いがけずすぐにやってきたことだった。