トップ 政治 国際関係 経済 社会・文化 連載

Commentary

マレーシアへ脱出する中国の回族
信仰の自由を求めた先の苦悩

松本ますみ
室蘭工業大学名誉教授
社会・文化
印刷する
マレーシアには近年、イスラーム信仰や教育の自由を求めて移住する中国の回族が増えている。写真はクアラルンプールの寧夏レストラン。(著者撮影)
マレーシアには近年、イスラーム信仰や教育の自由を求めて移住する中国の回族が増えている。写真はクアラルンプールの寧夏レストラン。(著者撮影)

彼ら/彼女らの安住の地はどこに?

 「マレーシアは中国の影響が大きいので完全に自由な言動はできない。ウイグル人が強制収容所に入れられたので、みな非常に恐れている」と、KL在住のある回族知識人はいう。「清末(しんまつ:19世紀末から20世紀初めの中国)の状況と同じ。歴史上同様のことが起こった。しかし、回民は圧力があろうと1000年以上生きながらえた。回民が回民であるため知識人の役割は大きい。ただリスクがあり、それを担える人は少ないし、周囲の人も協力を躊躇(ちゅうちょ)せざるを得ない。今は様子見だ」。

 別のYouTuberの回族女性はいう。「KLの回族は、組織化せず、名簿も作らず、一人でやる。レトリックで婉曲(えんきょく)的に表現するしかない。直接的な表現はできない」。

 「出る杭」は打たれ、表現の自由を奪われたAさん。義烏で苦労して作った幼稚園が嫌がらせを受け閉鎖を余儀なくされ、KLで再建したBさん。どちらも改革開放期のイスラーム女子教育のパイオニアで、宗教振興の高い理想を掲げていた。しかし、彼女たちも時代の制約からは自由ではなかった。中国のイスラーム界は現在打撃を受け沈黙している。KL在住の回族もきょうだいや親戚を中国に残し、中国とビジネスをしているので、目立つことを極力避け沈黙する。

 KLにはAさんやBさんのように信仰の自由を求めたある種の亡命者もいれば、子どもに中国共産党下の教育は受けさせたくないという教育難民もいる。そして、後者は回族だけでなく漢族にも多い。そして皮肉にも子どものイスラーム教育は、「家庭で教える」という人が多い。結局、マレー語を重視せず漢語か英語だけで生活しようとすると、国境移動の原動力だった信仰は結局二次的になるというジレンマがある。彼らの悩みはどこにいっても解決しそうにない。しばらくは時機を窺い、KLで羽休めということだろう。

KLのインターナショナルスクール(筆者撮影)
KLのインターナショナルスクール(筆者撮影)

 かつて、筆者が2000年代に義烏の敬虔(けいけん)なムスリム起業家に子どもの将来の進学先について訊いた時に、「優秀だったら北京大学か清華大学、そうでなかったらマレーシアかエジプト留学」と答えていたのが印象的だった。彼らの心配事は、中国国内の大学で信仰を保つのが難しいことと、子どもが万一漢族と結婚すれば信仰から離れることだった。そして国内の一流大学進学希望の傾向が示すのは、次世代の選択肢を増やすという名目で、世俗化への方向性を彼ら/彼女たち自身が選び取っているということだった。

 あれから20年たった。中国のイスラーム復興にかつての勢いはない。少子化、高学歴化、中国の高度経済発展と生活水準の底上げ、さらには上からの宗教中国化と世俗化の波がある。これは習近平政権が譲れないところだろう。また、信仰の自由を求めて移住したマレーシアが楽園というわけでもない。彼らはマレー語がわからないので華人ムスリムと繋がろうとする。しかし華人ムスリムにとっては、中国は祖先の地。憧憬(しょうけい)の対象で、ビジネスチャンスもある。そこに中国の宗教政策の実態を知る回族と華人ムスリムの間に微妙な認識のずれが生じる。

 そういえば「日本にイスラーム大学があればみな留学するのに」という話はよく聞いた。先進国で漢字を使い、信教の自由がある日本がブルーオーシャンに見えるらしい。

 

参考文献

松本ますみ2010『イスラームへの回帰:中国のムスリマたち』山川出版社

中国ムスリム研究会編2012『中国のムスリムを知るための60章』明石書店

奈良雅史2016『現代中国の<イスラーム運動>:生きにくさを生きる回族の民族誌』風響社

澤井充生2019『現代中国における「イスラーム復興」の民族誌:変貌するジャマ―アの伝統秩序と民族自治』明石書店

(本論は、科学研究費補助金 基盤研究(B)(一般)「21世紀中華系ディアスポラのアイデンティティとコミュニティ再構築に関する総合的研究」 研究代表者 松本ますみ 課題番号 2 4 K 0 0 3 25の研究成果の一部である)

1 2 3 4
ご意見・ご感想・お問い合わせは
こちらまでお送りください

Copyright© Institute of Social Science, The University of Tokyo. All rights reserved.