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Commentary

中国共産党の支配下で強まった華北村落の紐帯
日本占領時代までは排他的な村民意識が希薄だった

河野正
国士舘大学21世紀アジア学部講師
社会・文化
中国の華北・山西省の村廟(2010年頃)。現在は他の用途に使われており、廟としての機能はない。(写真:筆者提供)
中国の華北・山西省の村廟(2010年頃)。現在は他の用途に使われており、廟としての機能はない。(写真:筆者提供)

 「村の社会」という言葉を聞いたとき、閉鎖的・排他的な村社会、村八分、といったイメージを思い浮かべる人は多いだろう。

 筆者の祖父母が暮らした山陰の村も、よくも悪くも「村社会」が根づいていた。例えば氏神様の秋祭りは集落全体でのイベントである。体調を崩して普段は娘夫婦の家で暮らしていた祖母も、当番の年が来ると家に帰り、集落全体のために郷土料理である押し寿司を作っていた。また祖父母宅前の道路は周辺地域と比べて整備され、自動車で走りやすかった。それは「集落で役所に請願をしたから」であり、「近隣の〇〇集落は請願に行かなかったから道が悪いまま」だと幼いころからよく聞かされた。

 都会からの移住者を「ヨソから来た人たちは……」などと集落の皆で陰口を言うのも、我々のイメージする典型的な村社会の姿である。移住者はいつまでもヨソモノであり、すでに地域を離れて暮らしていた祖母はいつまでも「村人」であった。

1940年代の華北村落と日本的村社会の相違点

 さて筆者は中国の「村の社会」について研究をしている。上で見たような村社会は、言うまでもなく極めて日本的なものである。では、中国における村社会とはどのようなものであろうか。

 中国の村落、とりわけ華北地域の村落社会については、多くの研究や論争が行われてきた。その嚆矢(こうし)となるのが、1940年代に展開された「平野・戒能論争」である(三品、2007)。本論争は南満州鉄道(満鉄)調査部が日本占領下の華北村落で行った調査(のちに『中国農村慣行調査』として岩波書店から出版)を分析した平野義太郎と戒能通孝(かいのう みちたか)による論争であり、前者は華北村落の共同体的性格を主張し、後者はそれを否定した。

 この論争を解決に導いたとされるのが旗田巍(はただ たかし)である(旗田、1973)。旗田は上述の華北村落調査に参加したメンバーであり、平野・戒能らと同じ資料を用いて華北村落の共同体的性格の有無について分析を行い、華北村落を共同体的性格の薄い散漫な社会と結論づけた。旗田が挙げた華北村落の特徴を、冒頭の日本的村社会との比較で見てみたい。

 まず華北村落は多くの場合、排他的な村民意識を持たない。多くの村で「本村人」の条件が緩く、そのような村では移住してきたとたんに村人として扱われる。これは本村人としての特権の少なさの裏返しでもある。例えば落穂拾いや入会地の利用など、日本では村人に限定されるような行為が、華北村落では村人、ヨソモノを問わず広く許されていた。

 また、一般的な華北村落では、村全体を包括する組織や活動が存在しない。通常、青苗会や村公会と呼ばれる組織は存在し、村の行政に当たる役割を担っていた。しかしこれはもともと「看青」、つまり共同で行う作物の見張りに基づく組織である。そのため、例えば耕作地がわずかであり、家族だけで見張りが足りるような者は参加せず、またそのような義務もない。

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