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Commentary

1990年代日本の香港ポップス・ブーム
「継承されない越境の記憶」を掘り起こす

小栗宏太
文化人類学者
政治
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「香港ポップス」(ないしそれを含む「アジアン・ポップス」)の歴史を伝える貴重な資料の多くは、すでに散逸しかけている。写真は著者が集めている香港カルチャー関連の日本語雑誌・書籍の一部。(著者撮影・提供)
「香港ポップス」(ないしそれを含む「アジアン・ポップス」)の歴史を伝える貴重な資料の多くは、すでに散逸しかけている。写真は著者が集めている香港カルチャー関連の日本語雑誌・書籍の一部。(著者撮影・提供)

香港映画『トワイライト・ウォーリアーズ 決戦!九龍城砦』が日本で大きな注目を集めている。今年1月中旬の公開から、SNSなどを通じて徐々に話題となり、雑誌『anan』でも同作に関連する特集が組まれた。執筆現在(2025年5月)も全国各地で上映が続いており、日本での興行収入は5億円を突破したという(この映画及び背景となる香港の歴史については、倉田明子「香港史・香港人にとっての九龍城寨」に詳しい)。

香港のカルチャーが日本でこれほど話題になるのは、いつ以来だろう。

香港カルチャーの受容のピークは1990年代

私は普段、音楽を中心に現代香港のポップカルチャーを研究しているのだが、1年ほど前から、研究の一環として、香港のカルチャーを取り上げた日本の雑誌記事や書籍を収集している。日本における香港カルチャーの受容史を整理したい、という思いからだ。

香港カルチャーに関わる記事や出版物が突出して多いのは、やはり1990年代である。この時期には、王家衛(ウォン・カーウァイ)作品をはじめとする香港映画が注目を集め、一般誌でも「香港明星」(香港スター)に関する特集が多く組まれた。音楽方面でも、香港も含むアジア各地の音楽が「アジアン・ポップス」として盛んに紹介され、1995年には『POP ASIA』、『Asian Pops Magazine』という専門誌も創刊されている。

1997年の中国への「返還」もあり、香港情勢全般への関心が高まっていたこともあるのだろう。国会図書館の蔵書のうち、「香港」をタイトルに含む書籍の数を出版年別に調べてみると、やはり1997年が突出している。

グラフ:国会図書館検索結果

継承されない越境の記憶

私は1991年生まれであり、この流行に関するリアルタイムの記憶はない。私が物心付く頃には、日本はすでに「韓流ブーム」の真っ只中で、香港のカルチャーは身の回りでも、普段目にしているメディアでも、あまり話題になっていなかった(筆者と香港カルチャーとの出会いについては「著者に聞く④――小栗宏太さん」を参照)。

香港映画(やインド映画)の紹介者として知られる松岡環(敬称略;以下同)は、ちょうど「韓流ブーム」の頃に書かれた論考において、「韓流」が大きくクローズアップされることで、それ以前から香港も含むアジア圏のカルチャーを愛好してきた人々の体験が「継承されない越境の記憶」となってしまうことへの危惧を表明している [1]

韓流については、ブームを振り返る書籍や、研究所の類も多く刊行されている[2]。ところが、1990年代の香港ブームについては、その歴史を体系的にまとめた書籍や記事は、ほとんど見当たらない。このままでは、このブームの記憶は、まさに松岡環がかつて危惧した通り、後の世代に受け継がれることなく、忘れ去られていってしまうのではないか。

私が、この時代の香港関連の刊行物を収集し始めた動機もそこにある。自分と同じようにリアルタイムを経験していない世代のために、このブームの歴史を整理したいと思ったのだ。

本稿では、その進行中の研究に基づいて、日本における「アジアン・ポップス」の流行について、そしてその中における香港の位置付けについて、当時の刊行物に基づいて整理したい。

なお、あくまで刊行物の傾向に基づく整理なので、当時を知る方の中には「そんなの違う」「他にはこんなこともあったぞ」ということもあるかもしれない。本稿の末尾には連絡先を記しているので、その頃の事情に詳しい方はぜひご連絡願いたい。

「アジアン・ポップス」の流行

「アジアン・ポップス」という言葉が、日本のさまざまなメディアに登場するようになるのは、1990年代半ばのことである。1995年に『POP ASIA』、『Asian Pops Magazine』という専門誌が創刊されたことは先述の通りである。同じ年にはTokyo FM出版から『アジアンポップス事典』も刊行されている。

さらに遡(さかのぼ)れば『ミュージック・マガジン』や1984年創刊のエスノ・トラッド専門誌『包(PAO)』といった音楽雑誌は1980年代半ばごろからアジアの同時代のポピュラー音楽を取り上げ始めている。1987年には、篠崎弘が朝日新聞の連載「ポップ・アジア」で香港を含む東アジア・東南アジア各地のミュージシャンを紹介している。この連載は1988年に『カセット・ショップへ行けばアジアが見えてくる』(朝日新聞社)として単行本化された。

1990年11月には西武セゾン・グループのレコードショップ「Wave」が制作に関わるカルチャー雑誌『Wave』が「ポップ・エイジア」という特集号を刊行した。また同じ月から、レコード・レーベル「P-VINE」を経営するブルース・インターアクション社の雑誌『Black Music Review』[3]が「Asian Music Review」という連載を開始(〜1995年8月)している。1993年には、ややマニアックで難解だったこの連載の「アンチョコ」[4]として企画されたガイドブック『エイジアン・ポップ・ミュージックの現在』(大須賀猛+ASIAN BEATS CLUB編;新宿書房)が刊行された。

これらのディスクガイド的記事・書籍はいずれも非常にコアな内容であり、まだ一部の音楽好きに読まれていただけだったのではないかと思う。しかし、1994年に入ると、アジアのポピュラー音楽を軽妙に取り上げるフジテレビ系列の深夜番組『アジアNビート』の放送開始もあってか、一般誌にもアジアの音楽を取り上げる記事が散見されるようになる(『non・no』1994年5月20日「話題のアジアン・ビート、もう聴いてみましたか?」など)。

この年からは、メジャー・レーベルも「ASIAN WAVE」(ポリドール)や「WEASIAN WIND」(ワーナー)などと銘打って、香港をはじめとするアジアの歌手たちの国内盤を続々とリリースした。1994年7月の『AERA』の記事は、ヴァージン・メガストア新宿店の「週末のアジアポップスのコーナーは、商品の補充もできないほどの人だかり」だと伝えている[5]

こうしてじわじわ広がった流行が1995年の専門誌の刊行につながったのだろう。

香港化・中華化するアジアン・ポップス

これらの雑誌、書籍を細かく見てみると、同じ「アジア」という括(くく)りの中でも、スポットライトの当たる地域が微妙に変化していることがわかる。

1990年代初頭は、明らかに東南アジアが中心だった。WAVE特集号「ポップ・エイジア」(1990)も『エイジアン・ポップ・ミュージックの現在』(1993)もシンガポール(とくにディック・リー)をはじめとする東南アジア諸国の紹介から始まっている。『Black Music Review』の「Asian Music Review」でも当初は東南アジア(とスリランカ)の音楽ばかりが紹介されており、台湾や香港など中華圏に関する記事が登場するのは、連載開始から2年以上が経過した1993年以降のことである[6]

一方で1994年以降のメジャー各社の国内盤は香港など中華圏の歌手が中心となっており、1995年の『アジアンポップス事典』も「香港」、「中国」、「台湾」の紹介から始まっている。
 
「アジアン・ポップス」として扱われる地域の変遷は、同時代的にも観察されていた。ラテン音楽専門誌『Latina』の1996年の記事は「93年の『エイジアン・ポップ・ミュージックの現在』は明らかに熱帯アジア(シンガポール・マレーシア・インドネシア)に力点。が、2年後の『アジアンポップス事典』では、エスニック趣味的なアジア音楽関心から、ビジネス対象としてアジア音楽が脚光を浴びてきた状況が読み取れる。対象ミュージシャンが極東アジア、とくに中国系が多く、しかもアイドル的扱い」と書いている[7]

「女性目線化」するアジアン・ポップス?

こうした「アジアン・ポップス」の香港化/中華化の動きと関連して興味深いのは、女性目線でアジアの音楽を取り上げる刊行物の増加である。『Asian Pops Magazine』、『POP ASIA』の2誌も、女性が編集長を務める雑誌だった。『Asian Pops Magazine』は、創刊から現在に至るまで橋本光恵が編集長を務めている。『POP ASIA』は、創刊号から第4号までは大須賀猛が編集長だったが、5号以降は関谷元子が引き継いだ。

関谷は、編集長就任に当たり、前任者時代の男性目線からの脱却を目指したと語っている。

「大須賀さんは男だからやっぱり、1号から4号まで全部女の人が表紙だったんです。これだけ変えていい?て言って。香港は当時とても力があったので、香港の男性スターを表紙にしていくことにしました。それで、ジャッキー(張學友)は中華圏では一番リスペクトされているし、なにはともあれ、最初の号の表紙はジャッキーにしようと思った訳です(笑)。日本ではまだ、ちょっと知名度がなかったけどね。その次はアンディ(劉徳華)にして、四大天王にいって…。(略)女の人は絶対裏切らないからと思って(笑)」[8]

2004年発行の通算50号によると、歴代掲載回数ランキングは以下の通りである。香港の男性アーティストがとりわけ多く掲載されていたことがわかる(女性のランクインは5位のフェイ・ウォンのみ)。

  1. 張國榮 レスリー・チャン(23回)[香港]
  2. 劉德華 アンディ・ラウ(17回)[香港]
  3. 張學友 ジャッキー・チュン(16回)[香港]
  4. 黎明 レオン・ライ(14回)[香港]
  5. 王菲 フェイ・ウォン(11回)[香港]
  6. 謝霆鋒 ニコラス・ツェー(11回)[香港]
  7. 鄭伊健 イーキン・チェン(10回)[香港]
  8. 郭富城 アーロン・クォック(8回)[香港]
  9. SHINHWA 神話(7回)[韓国]
  10. 王力宏 ワン・リーホン(6回)[台湾]
    金城武(6回)[台湾]
    ディック・リー(6回)[シンガポール]

投書欄を見ると、「このページを読めば、この雑誌の読者の大多数が女性である事は一目瞭然ですが、男である僕としては、もっと男性のLETTERSものせてほしいという事です。どのように選んでのせているのかは分かりませんが、男性の読者もいるということを忘れないで下さい」(12号、1997年6月)、「いつも楽しく拝読しております。が、ほとんど香港芸能が中心で「どこが”POP ASIA”なんだ?」と思ってしまいます」(12号、1997年8月)など、女性読者重視/香港重視路線に不満を抱く読者もいたことがわかる。

「韓流」の先駆けとして?

それまでの日本におけるアジア、とりわけ芸能人の取り上げられ方が暗黙のうちに極めて男性目線だったことを思えば、この時代にあえて女性目線を打ち出した人々の心情も理解できるように思う。

ポリドールの「Asian Waves」シリーズを見ても、当初リリースされたのは王菲(フェイ・ウォン)、周慧敏(ヴィヴィアン・チョウ)、陳慧嫻(プリシラ・チャン)、關淑怡(シャーリー・クァン)など女性歌手ばかりだった。これらの女性歌手を集めた『美少女宣言』というコンピレーションも発売されている(1994年4月;Vol.2は同12月)。

1996年、香港スターにハマる「明星迷」たちについて当事者の視点から取り上げた書籍『香港中毒』を刊行した原智子は、こうした男性目線の「美少女」的な香港/アジア表象について、次のように書いている。

「これはつまり、日本がアジアを見る目というのは、おじさんが若いかわいい女の子を見る、そういう視線と似ているということではないか。/「やっぱり世の中っておじさんが動かしていて、メジャーな情報もおじさんたちが流していて、おじさんの琴線に引っかからないものはなかなか伝わらないのね」なんて勝手に思ったわけである。そしておじさんは自分の中にある幻想のままにアジアを見ようとする。あるいは幻想のままのアジアを表現しようとする。それは私たち香港迷のアジアとは、だいぶ趣のちがうものだったわけだ」[9]

このように見てみると、1990年代の香港ブームには、女性が主体となってアジアの芸能を消費し、評論する空間を創出したという、歴史的に重要な側面もあったのではないか。2000年代以降の「韓流ブーム」も、女性たちを主体とした流行として注目を集めるわけだが、それもまた、1990年代の「明星迷」たちが切り開いた空間の延長線上において展開されたものだったのではないか、そんなふうにも思えてくる。

香港カルチャーの凋落

もちろん、1990年代に香港を追いかけていた人たちが2000年代以降は韓国にシフトした、と単純に考えているわけではない。ただ、アジアン・ポップス関連誌の表紙を整理してみると、興味深い傾向も見て取れる。

1990年代には『POP ASIA』の表紙を飾るのは、圧倒的に香港勢が中心だったが、2000年代に入ると、韓国勢や台湾勢が目立つようになる[10]

『Asian Pops Magazine』を見ても、多少の時期のずれはあるものの、概ね同様の傾向を示している[11]

表『Asian Pops Magazine』歴代表紙

なんにせよ、2000年代以降、香港カルチャーへの注目度は急速に低下した。2003年、「SARS」流行により一時的に渡航が困難になったこと、そしてその年に張國榮(レスリー・チャン)、梅艷芳(アニタ・ムイ)といったスターが相次いで早逝したことも大きかったのだろう。また同じ年に発効した香港と中国大陸の経済緊密化取り決めにより、香港映画の大陸市場進出が容易になったため、香港の芸能界は巨大な大陸市場を目指すようになる。香港内部でも、この時期以降、大陸の影響力増加による変質や世代交代の失敗などを批判し、「香港カルチャーは終わった」と嘆く悲観的な論調が支配的になっていく。

こうして「香港ブーム」が去り、私がリアルタイムで知る、香港カルチャーの冬の時代がやってきた。2010年代以降は、音楽誌や一般誌でアジアの音楽に関する特集が組まれても、香港のアーティストに全く言及されないことも珍しくない。もはや香港は、日本における「アジア」表象の中心ではなくなったのだ(編集部:反対に、2000年代の香港の「東京」表象については、銭俊華「香港ポップスの歌詞が描き出す「東京」の表象」をご覧ください)。

継承されない一次資料

このように「香港ポップス」(ないしそれを含む「アジアン・ポップス」)の歴史に関する資料を整理する中で、気づいたことがある。それは、当時の様子を伝える貴重な資料の多くが、すでに散逸しかけていることだ。

日本国内の商業出版物であれば、ある程度はアーカイヴ化されている。私自身、資料の大部分は、国会図書館と大宅壮一文庫を利用して閲覧した[12]。ただし、完全ではない。『POP ASIA』『Asian Pops Magazine』のような専門誌は大宅壮一文庫には所蔵されていないし、国会図書館でも、両誌ともに刊行初期のものは欠号が多く、全号を閲覧することはできなかった。

さらに問題なのは、そもそもアーカイヴ化されないような類の資料である。当時は『香港通信』のような香港刊行の日本語誌もあったが、これは海外刊行のため国会図書館には納本されていない。またファンによって制作され、頒布(はんぷ)されていた同人誌も、ほとんど図書館には入っていないだろう。出版物以外で言えば、日本盤CDに封入されていた「ライナーノーツ」も貴重な資料になり得るが、これも公共機関での閲覧は難しい。

また、このブームの一部は、日本におけるインターネットの普及開始期とも重なる。「BBS」(電子掲示板)やメールマガジンなどを通じても盛んな議論や情報発信が行われたと思われるが、それらのデジタル・データも、誰かがローカル上に保存したデータが偶然残っていない限り、すでに失われてしまっているだろう。

つまり、私のような後追い世代が歴史を探ろうと思っても、すでにアクセスするのが難しくなってしまっている一次資料がとても多いのである。このままでは、将来、当時を知る人々がいなくなる時が来れば、このブームはまさに「継承されない越境の記憶」となってしまう。

そんな危機感もあり、私はこれらのアーカイヴ化されていない一次資料の発掘に取り組むとともに、当時を知る方々からの聞き取りに少しずつ着手している。もし、この記事をご覧の方の中にも、ご協力いただける方がいたら、ぜひ連絡願いたい。

連絡先:sasha.asianpops [アットマーク] gmail.com 小栗宏太

謝辞:本論考の元となる資料の収集に当たり、サントリー文化財団の2022 年度及び2023年度「若手研究者による社会と文化に関する個人研究助成(鳥井フェローシップ)」を活用しました。ここに記して感謝申し上げます。

[1] 松岡環「映画が国境を越えるとき:アジアの”ハリウッド”が築いたムービーロード」土佐昌樹、青柳寬編『越境するポピュラー文化と〈想像のアジア〉』めこん、2005年、132頁

[2] ほぼリアルタイムの論集として毛利嘉孝編『日式韓流:「冬のソナタ」と日韓大衆文化の現在』せりか書房、2004年;石田佐恵子、木村幹、山中千恵編『ポスト韓流のメディア社会学』ミネルヴァ書房、2007年;当事者による回顧として桑畑優香、八田靖史、まつもとたくお、吉野太一郎『韓流ブーム』ハヤカワ新書、2024年;音楽にフォーカスした歴史の整理として山本浄邦『K-POP現代史:韓国大衆音楽の誕生からBTSまで』ちくま新書、2023年;金成玟『日韓ポピュラー音楽史:歌謡曲からK-POPの時代まで』慶應義塾大学出版会、2024年などがある。

[3] 『POP ASIA』は創刊当初はこの雑誌の増刊号扱いだった。

[4] 大須賀猛「Asian Music Review 49(最終回)ハマったら脱出不可能!?アジア歌謡の二重らせん」『Black Music Review』1995年8月号。

[5] 板垣優佳「東「洋楽」の時代 半歩先行くアジアポップスはいかが 新しい響きと素朴なパワーが洋楽市場の沈滞を破るか」『AERA』1994年7月11日。

[6] 石谷崇史「台湾語ポップスのニュー・ウェイヴ,林強(リン・チャン)」(『Black Music Review』1993年4月号);関谷元子「熱烈台湾音楽事情」(同1993年6月号、7月号連載);新堀恵「香港——台北コンサート見聞録」(同1993年10月号);壬生昌子「香港における怨曲(ブルース)シーン考察」(同1993年11月号)など。

[7] 白石顕二「東アジアの音楽を知るためのブックガイド」『Latina』1996年6月号、26頁。

[8] Asian Crossing「Asicro People file no.1 関谷元子さん(ポップアジア編集長)」『Asian Crossing』2004年11月9日。http://www.asiancrossing.jp/intv/people/0104/index.html

[9] 原智子『香港中毒:無敵の電影・明星迷たち』The Japan Times、1996年、26頁。

[10] 『POP ASIA』は2007年2月号を最後に休刊した。

[11] なお2010年代以降は音楽の扱いはほぼなく、事実上はドラマ・映画の専門誌になっている。創刊以来、同誌には香港などアジア諸地域の音楽のヒット・チャートを掲載するコーナーがあったが、2011年9月号以降縮小され、2015年10月号以降は完全に廃止されている。

[12] ただし本稿に掲載している写真は、いずれも筆者個人蔵の資料を撮影したものである。

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