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Commentary

1990年代日本の香港ポップス・ブーム
「継承されない越境の記憶」を掘り起こす

小栗宏太
文化人類学者
政治
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「香港ポップス」(ないしそれを含む「アジアン・ポップス」)の歴史を伝える貴重な資料の多くは、すでに散逸しかけている。写真は著者が集めている香港カルチャー関連の日本語雑誌・書籍の一部。(著者撮影・提供)
「香港ポップス」(ないしそれを含む「アジアン・ポップス」)の歴史を伝える貴重な資料の多くは、すでに散逸しかけている。写真は著者が集めている香港カルチャー関連の日本語雑誌・書籍の一部。(著者撮影・提供)

1996年、香港スターにハマる「明星迷」たちについて当事者の視点から取り上げた書籍『香港中毒』を刊行した原智子は、こうした男性目線の「美少女」的な香港/アジア表象について、次のように書いている。

「これはつまり、日本がアジアを見る目というのは、おじさんが若いかわいい女の子を見る、そういう視線と似ているということではないか。/「やっぱり世の中っておじさんが動かしていて、メジャーな情報もおじさんたちが流していて、おじさんの琴線に引っかからないものはなかなか伝わらないのね」なんて勝手に思ったわけである。そしておじさんは自分の中にある幻想のままにアジアを見ようとする。あるいは幻想のままのアジアを表現しようとする。それは私たち香港迷のアジアとは、だいぶ趣のちがうものだったわけだ」[9]

このように見てみると、1990年代の香港ブームには、女性が主体となってアジアの芸能を消費し、評論する空間を創出したという、歴史的に重要な側面もあったのではないか。2000年代以降の「韓流ブーム」も、女性たちを主体とした流行として注目を集めるわけだが、それもまた、1990年代の「明星迷」たちが切り開いた空間の延長線上において展開されたものだったのではないか、そんなふうにも思えてくる。

香港カルチャーの凋落

もちろん、1990年代に香港を追いかけていた人たちが2000年代以降は韓国にシフトした、と単純に考えているわけではない。ただ、アジアン・ポップス関連誌の表紙を整理してみると、興味深い傾向も見て取れる。

1990年代には『POP ASIA』の表紙を飾るのは、圧倒的に香港勢が中心だったが、2000年代に入ると、韓国勢や台湾勢が目立つようになる[10]

『Asian Pops Magazine』を見ても、多少の時期のずれはあるものの、概ね同様の傾向を示している[11]

表『Asian Pops Magazine』歴代表紙

なんにせよ、2000年代以降、香港カルチャーへの注目度は急速に低下した。2003年、「SARS」流行により一時的に渡航が困難になったこと、そしてその年に張國榮(レスリー・チャン)、梅艷芳(アニタ・ムイ)といったスターが相次いで早逝したことも大きかったのだろう。また同じ年に発効した香港と中国大陸の経済緊密化取り決めにより、香港映画の大陸市場進出が容易になったため、香港の芸能界は巨大な大陸市場を目指すようになる。香港内部でも、この時期以降、大陸の影響力増加による変質や世代交代の失敗などを批判し、「香港カルチャーは終わった」と嘆く悲観的な論調が支配的になっていく。

こうして「香港ブーム」が去り、私がリアルタイムで知る、香港カルチャーの冬の時代がやってきた。2010年代以降は、音楽誌や一般誌でアジアの音楽に関する特集が組まれても、香港のアーティストに全く言及されないことも珍しくない。もはや香港は、日本における「アジア」表象の中心ではなくなったのだ(編集部:反対に、2000年代の香港の「東京」表象については、銭俊華「香港ポップスの歌詞が描き出す「東京」の表象」をご覧ください)。

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